和泉元彌のダブルブッキング事件、ヘリコプターで解決、母・節子の管理ミス

有名人

一時、世間を騒がせた和泉流狂言師の和泉元彌さん。

和泉元彌さんのダブルブッキング事件お家騒動などについて順を追って見ていきましょう!

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和泉元彌のダブルブッキング(1):2002年2月長野の公演から東京のテレビ出演、公演を早退しヘリコプターで移動

和泉元彌さんは1998年にネスカフェゴールドブレンドのコーヒーのCMで注目され、一躍有名になりました。

2000年の年末には紅白歌合戦の司会、翌年には大河ドラマで主役を演じるなど順風満帆なタレント生活を送っていました。

しかし人気だったために前代未聞なスケジュールを組んでしまうはめになったのです。

2002年2月、長野県で公演をしていたのですが早退してしまいました。同日の夜、東京でもソルトレイクオリンピック関連のテレビ出演を予定していたためです。

出典:Googleマップ 長野県から東京都

和泉元彌さんが起こしたこの2002年のダブルブッキング事件はテレビで大きく報道され、これがキッカケで和泉元彌さんはテレビから姿を消しています。

この時の移動手段としてヘリコプターを使用したと言われています。

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和泉元彌のダブルブッキング(2):2002年7月27日岐阜から東京まで400km通常3時間をヘリコプターと小型ジェット機をチャーターし2時間で移動、マスコミとのカーチェイスが繰り広げられる

2002年7月、岐阜県可児市と新宿・コマ劇場の公演が重なりました

和泉元彌さんのダブルブッキング事件が再発してしまったのですね。

詳細を見ていくと。

2002年7月27日、9時10分に岐阜県可児市の文化創造センターで公演が終わった後に、12時30分に東京新宿コマ劇場公演『天翔ける獅子ー義経と弁慶』開演という過密スケジュールを組んでいました。

岐阜から東京までは約400kmで、それを3時間で移動しなければならないというすごいミッションです。

出典:Googleマップ 岐阜から東京

どう考えても無理があるとわかっていたようなのですが、当時度重なる騒動で世間の批判は強まっていたため、これ以上のミスが許されません。

そこで考えたのが次の移動手段です。

なんと、ヘリコプターと小型ジェト機をチャーターして、不可能を可能にしたのでした。

このために多大なお金をかけるということも大きな話題となりました。

この騒動はマスコミも駆けつけ、岐阜での公演終了後から元彌さんの移動が中継されました。

ヘリコプターで名古屋空港へ行き、さらに小型ジェット機で羽田空港へ移動します。

到着ゲートの外で待機させておいたハイヤーに乗り込み、ここからはアクション映画さながらのマスコミとのカーチェイスが繰り広げられました。

このとき、元彌さんさんを追いかけるマスコミの車やオートバイが30台にも及びました。

このようにしてダブルブッキング事件として大きくマスコミに取り上げられ話題になりました。

ようやく、11時10分に東京新宿コマ劇場へたどり着き、公演時間の12時30分に間に合わせることができたのです。

ここまで資金と労力をかけて世間に話題を提供してしまいました。

ところが、ダブルブッキング事件はこれだけではありませんでした。

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和泉元彌のダブルブッキング(3):2002年9月14日、岡山県2件と長野県1件での公演3件のため850kmの移動

2002年9月14日、岡山県と長野県での公演が重なりました。

再びダブルブッキングで今度は850㎞を移動しなければならないことになったのです。

具体的には、ダブルブッキングしていた岡山県岡山市での公演2件と長野県大町市での公演1件の合計3公演を行うため、ビジネスジェットなどを使い、合計約850kmを移動しました。

出典:Googleマップ 岡山県から長野県

今回は、2002年7月27日の岐阜から東京までの距離400kmよりも長く2倍となった過密なスケジュールとなりました。

すべての公演3件に間に合い、舞台は無事にこなせましたが、この頃にはそれぞれの会場で空席が目立っていたそうです。

度重なるダブルブッキングなどの騒動で人気にも陰りが見えてきたと言われています。

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2002年和泉元彌は多忙の時期だった、年間204公演、妻・羽野晶紀との結婚、前年は木村拓哉を差し置いてNHK大河ドラマ『北条時宗』主演に抜擢

2002年に何度もダブルブッキングで世間を騒がせた和泉元彌さんですが、当時は目が回るほどの忙しさだったようです。

元彌さんは、2002年のダブルブッキング事件が起こった前年2001年に大河ドラマ『北条時宗』の主演を務めました。

元彌さん以外で時宗役の候補として挙がっていた人物は、木村拓哉さん、竹野内豊さん、中井貴一さんでした。このような顔ぶれを差し置いて、元彌さんは主役に抜擢された快挙があり、勢いに乗っていた時期であることがわかります。

コーヒーのCMから一気にブレイクした1998年から、俳優としても大きく認められたことから当時の人気ぶりや多忙ぶりが分かります。

和泉元彌さんはウェブサイト『zakzak』2018年11月15日掲載において、2002年の当時を振り返り次のようにコメントしています。

「その年は年間204公演もあったんです。私は掛け持ちだと思っています。なので、いまだにWブッキングが肩書のように言われるのはちょっと…。」

ご本人的には「ダブルブッキング」ではなく「掛け持ち」だったそうです。意味の捉え方の違いですね。

出典:和泉 元彌のInstagram@izumimotoya 2018年10月27日

加えて、和泉元彌さんは2002年1月に女優の羽野晶紀さんと結婚し、その後2人の子供が生まれています。

テレビでは結婚生活に大きく着目され、妻の羽野晶紀さんも同じく有名となりました。

2002年の公演数は200以上、トークを交えた狂言ライブや狂言教室を行い、人気を博していました。

人気者であったがゆえに目が回るほど忙しかったのだそうです。

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和泉元彌がダブルブッキングした原因は仕事を断れない母・節子のマネージメントミス、予定を紙にササッと書くだけ

しかし、人気が出て忙しくなる芸能人はたくさん居ますし、和泉元彌さんにだけダブルブッキング事件が起こってしまった原因は何なのでしょうか。

出典:不明

この過密スケジュールを管理していたのは母・和泉節子さんでした。

スケジュールの管理方法はずさんなもので、依頼された仕事は断れなく、予定を紙にササッと書くだけのものだったそうです。

和泉元彌さんがメディアによく出演されていた時、どこへ行くのにも母親の節子さんが同行しており、仲の良さが話題になっていました。

しかし、スケジュール管理をしていた母親のマネージメントミスでダブルブッキング事件は起こってしまいました。

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和泉元彌のスキャンダルはダブルブッキングだけではなかった、能楽協会からの追放で退会命令処分を取り消す裁判で母の暴走

母親の節子さんにはスケジュール管理のあまさ以外にも話題があったようです。

2002年、和泉元彌さんはさらに「和泉流宗家継承問題」が取り上げられました。

和泉元彌さんの父親である「和泉流十九世宗家」の和泉元秀が1995年に亡くなり、すぐに和泉元彌さんは「和泉流二十世宗家」を流内の同意を得ることなく名乗っています。

しかし、能楽協会は和泉元彌さんを宗家と認めず大反対し能楽協会から退会処分を実施します。

この退会処分に至ったこととして、度重なるダブルブッキングなどで世間を騒がせ、能楽のイメージを悪くしてしまったということも原因だと言われています。

この退会処分に対して和泉元彌さんサイドは能楽協会に「退会命令処分」の取り消しを求めました

そして訴訟の口頭弁論が東京地裁で開かれました。6時間にも及ぶ証人尋問だったそうです。

まず、紺色の着物姿の母・節子さんが証言台に立ち、被告弁護士からの苦しい質問にストレートには答えず「和泉流を生存、継承、普及していくことが目的で…」という調子で演説の雰囲気となってしまいました。

これに対して、滝澤孝臣裁判官から「質問をよく聞いてください」「自分の意見を言う場ではありません」と注意されてしまいます。

古典芸能という格式高い世界にいる和泉節子さんですが、スケジュール管理にしてもどこか抜けている部分があり、裁判の場でも裁判官から注意されてしまう一幕もあるのは意外ですね。

そして、元彌さんは、「今でも道を歩けば“ドタキャン”“ダブルブッキング”と言われる。精神的な苦痛がある」などと訴えましたが、

またもや裁判官から「宗家を名乗るなら、みなの信頼を得るための努力は何かしましたか。こうなる前になんとかなったのでは」と諭されるシーンもありました。

いくらスケジュール管理やマネージメントを母親に任せているといっても、元彌さんもいい年の大人ですから注意するなり、スケジュールを自分でも管理するようにするなり、方法はあったはずです。

何度もダブルブッキングが起こってしまったということは、母親の節子さんだけでなく、和泉元彌さんにも責任はありますね。

2005年3月17日、東京地検が「退去は妥当」として敗訴判決を言い渡しました。

この結果、元彌さんは能楽協会の舞台に立つことは許されず、能の間に演じる『間狂言(あいきょうげん)』を演じられなくなってしまいました。

裁判は敗訴してしまいましたが、証人尋問の時点で結果が決まっていたようにも見えますね。

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嫁・羽野晶紀と母・和泉節子に嫁姑問題あり

ちなみに、母親の和泉節子さんに関する問題は他にもありました。

そもそも、羽野晶紀さんと和泉元彌さんの結婚には大反対だったという母親の和泉節子さん

いわゆる嫁姑問題です。

それは、母親・和泉節子さんが、

「関西弁の禁止」「マニキュア禁止」「お稽古ごと禁止」「車の運転禁止」「ノースリーブ禁止 」「芸能界を引退」

という「七か条」を羽野晶紀さんに突きつけたとして報道され問題となりました。

実際に「七か条」があったのかどうかは分かりませんが、母親である和泉節子さんから「芸能人の嫁を貰うつもりはない」「お仕事をセーブして、事務所を辞めて欲しい」と言われたのは事実だそうです。

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和泉元彌がプロレス参戦、またダブルブッキングするのではないか疑いの声あり

横浜アリーナで2005年11月3日開催する予定の「ハッスル・マニア2005」に参戦を和泉元彌さんは発表しました。

プロレスデビューするということで会見を開いた和泉元彌さんに対して、プロレス関係者やマスコミが集まった会見での様子を見ていきましょう。

元彌さんがコメントするに「(世間から)プロレス転向か、とも言われているが、自分は変わらず、生涯狂言師でございます」と自分の立場を強調しました。

プロレス協会からかオファーがあったため、プロレスに参戦することを決めたそうです。

加えて、小さい頃からプロレスが好きだったということもあっての参戦だったのだとか。

すると、以前のようなダブルブッキング事件が持ち出されて、芸能関係のマスコミ陣から「今回の11月3日にダブルブッキングということは?」と質問され、元彌さんは「ほかの仕事?ないです」と否定しました。

このころには和泉元彌さんは一体どこへ向かっていたのでしょう。

狂言師がプロレスデビューすることで、狂言の世界で伝統芸能のイメージを崩すような問題に発展しないとも言い切れません。

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和泉元彌は「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん」と叫びヘリコプターでプロレス参戦

2005年11月3日、プロレス開催日に、またダブルブッキングかと心配される中、会場にはヘリコプターの音が聞こえてきました。

すると、青と金色のド派手な衣装姿の元彌さんが天井に出現しました。縄ばしごにぶら下がり、狂言の独特な口調で、

和泉元彌でござる。遅刻もダブルブッキングもござらぬ。開場前から、ずーっと上で待っていたのでござる

と言って登場しました。

出典:不明

和泉元彌さんは、私生活から仕事までエンターテイメント性の高い人物であることが分かりますね。

突っ込みどころが多いというか…。

ともあれ、和泉元彌さんはプロレスデビューをとても楽しまれたようです。

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和泉元彌のダブルブッキング事件に対するファンの声

和泉元彌さんはダブルブッキング事件で世の中を様々な意味で盛り上げてくれました。

世の中の人はどのように考えているのかその声を紹介します。

「和泉元彌がダブルブッキングしてヘリで移動っていま考えるとほんとどうでもいいな」

「2002年の和泉元彌ダブルブッキング事件を忘れてはいけない」

「平成と言えば和泉元彌のダブルブッキング事件ですかねぇ〜」

「ダブルブッキングで思い出したけどこの前和泉元彌の母がTVでてた、まだこの業界に痛んだな」

などなど、様々な声がありますがダブルブッキング事件に対してまだ関心を寄せている人は少なくありません

やはり度重なるスキャンダルで人気を落としてしまったのでしょうか。

現在の和泉元彌さんは狂言イベントや講演会、子供たちに狂言を教える教室を開くなど、積極的に狂言師として活動しています。

2018年のチョコレートプラネットさんによる、和泉元彌さんのモノマネで再び脚光を浴びましたね。

今後の活躍に期待が高まります。

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