女優の深津絵里さんのプライベートはあまり知られていません。
母親が書道家、父親がエンジニアの間に生まれ一人っ子です。
今回は両親について詳しく見ていきます。
母親は書道家の深津諭美子
深津絵里さんの母親は書道家の深津諭美子(ゆみこ)さんです。
1948年8月24日生まれ。2015年6月11日、66歳で永眠。大分県別府市出身。
以前、雅号「諭黄(ユンホン)」で活動していました。書道家の父(深津絵里さんにとって祖父)から、書の基本を習い、この号をつけてもらいました。
人気女優になった深津絵里さんに気遣って、「娘の七光り」を嫌い、本名での活動を控えていました。
2009年頃から本名の「深津諭美子」を名乗るようになります。
諭美子さんは独自の「漢字アート」を確立。特徴は次のようになります。
- 両手や左手で筆を持って感じたままに筆を走らせるスタイル
- 筆として、歯ブラシやほうき、たわし、ストローを使うこともある
一般的な書道とは全然違いますね。
国内外で活動し、それが認められ、2014年11月に文化振興などに貢献した人物を顕彰する「東久邇宮文化褒賞」を受賞しました。
2015年6月11日にガンで亡くなられています。当時66歳。
母親の最期
亡くなる前年の2014年11月2日に諭美子は自身のブログで末期がんを公表し、闘病していました。
【ブログ】書道家 諭黄 の気ままな人生
1年ほど前から体調が優れないことに気づいていて、肩にしこりができていて、病院で検査したところ肺がんと診断されました。医師から「余命3カ月」「長くて1年」と宣告。
亡くなる2ヶ月前の2015年4月に切除手術を受けましたが、既に転移していたそうです。
娘である深津絵里さんは献身的な看病をしていたためか、当時、体重が激減したことが話題になりました。
諭美子さんの意向で、放射線治療や抗がん剤の投与もしませんでした。体の痛みに耐えながらでも、最後まで書道家として活動することを選びました。
それから、同6月11日に亡くなられました。家族に看取られながら息を引き取り、延命治療をしなかったため、顔がきれいなままだったそうです。
葬儀は密葬とし近親者のみで行われたそうです。
母親が書道家になるまで
諭美子さんは、20代に服飾デザイナーを志望していましたがうまくいかず、福岡にブティック(洋服店)を開きました。
30代後半で、娘の深津絵里さんが1986年「ミス原宿」に選ばれました。芸能界入りに反対していましたが、深津絵里さんの意志が堅く、諭美子さんは「てんぐにならないで」と送り出しました。
書の世界に本格的に向かったのは、40代中頃で、ブティックをたたみ東京に越してきてからです。その前の40歳のころに、父の遺志を継ぐため、中国の上海大学に1年ほど留学し、漢字を学び直すことで、文字をデザインする才能が開花しました。
2009年頃、知人の紹介で個展の依頼が来て、実名を勧められました。娘の深津絵里さんに話すと「お母さんの人生だからいいよ」、寡黙な夫も賛同してくれました。
そして、初の個展が実名で開かれました。
当時、「自分をもっと成長させたい。そのためにも、これからは本名でいきたい」と語っていました。
深津絵里さんの女優としての表現力豊かな演技は、アーティスティックな母親から譲り受けたものかもしれませんね。
父親はエンジニア
深津絵里さんの父親についてです。
職業は、メーカーのエンジニアで、医者でもあるそう。
深津絵里さんが幼少の頃、言葉の響きが好きで薬剤師を目指していたようで、その理由として、医者でもあった父親の影響があるかもしれませんね。
性格は寡黙、亭主関白。この性格に、母親は耐えていたようです。
深津絵里さんが幼少の頃、父親は海外赴任していました。深津絵里さんも父親と一緒に海外に行っていたことがあり、これがきっかけで旅行が好きになったそうです。父親と仲が良かったことがわかります。
母親の諭美子が、亡くなる前に、家族旅行を提案したそうです。父親が海外赴任だったから、国内にしたそうです。みなさん家族思いだったことがわかります。
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